2022年1月27日、湯淺直樹が引退を表明しました。
「今シーズンも10月からオリンピックで勝つためにどうやったらいいかと、大瀧コーチと取り組んできたんですが、12月のクロンプラッツのFISレースでトップと3秒差、2本目だけでもベストタイムを出そうと強い気持ちで臨みましたが、2本目でもさらに引き離されるというこれまでに経験したことない状態に直面しました。
自分の滑りのビデオを見ても明らかに『キレ』が落ちていると感じ、『大瀧さん、私はこれ以上速く滑ることはできません。明日のレースで最後にしたいと思います』と告げました。
いつもなら『まだまだこれからでしょ』と励ましてくれる大瀧コーチも『わかった』と頷いてくれました」。
今季は北京オリンピック出場をかけて臨んだ38歳、現役最後のシーズンでしたが、記者会見の冒頭、湯淺直樹は具体的な引退決断の経緯を説明してくれました。
2022北京の出場はかないませんでしたが、オリンピックの出場は2006トリノ、2014ソチ、2018平昌と3回。
中でも2006年トリノオリンピック、アルペンスキー男子回転7位入賞はセンセーショナルでした。
39番スタートから1本目、トップのベンヤミン・ライヒに+1.39秒の17位につけ、2本目はライヒ、マーク・ベルトーに次ぐ全体3位の滑りでジャンプアップ。
セストリエールの夜空にメイド・イン・日本(ジャパン)のスキーを掲げてみせました。
この時は11番ビブの皆川賢太郎が1本目+0.07秒の3位、10番ビブの佐々木明が+1.00秒の8位につけ、賢太郎が+0.03秒で銅メダルを逃す結果でしたが、生田康弘と共に4人出場し、メダルをかけて戦った日本アルペンスキー界の黄金時代でした。この時湯淺は22歳。
2010年のバンクーバーオリンピックは出場できなかったものの、2014ソチ、2018平昌と2大会連続で日本のエースとして出場しました。
ソチでは1ヶ月前のウェンゲンで足首を骨折。平昌でもその「鬼門」ウェンゲンで左膝を痛めてその後のW杯を欠場。
両大会ともに大きな怪我を抱えながらの執念の出場でした。
「オリンピックに挑戦してく中で、アトミックにスキーを変えてからも怪我が多く、残念な結果で引退を迎える大きな原因なのかと思います」
腰、膝、足首と、常に身体のどこかしらに怪我や痛みを抱え、薬や注射でそれを抑えながら満身創痍で戦い続けました。
30年に及んだレース人生、その途中から応援させてもらった私は、彼から多くの思い出をもらえました。
うれしいこと、輝かしいこと、楽しいことばかりではありません。悔しいことの方が多かったかもしれません。
でも、湯淺直樹のレーサー人生の、世界で戦う姿を撮らせてもらえたことは、私にとってとてつもなく大きな宝物です。
本当にありがとう。
今日はここまでにして、また明日、「湯淺直樹ヒストリー・W杯編」をアップしたいと思います。