Air Canada機内ではオリンピックオフィシャルエアラインということもあるのか、アイスホッケー決勝戦、カナダ対アメリカの試合経過をアナウンスしながらのフライトでした。
閉会式も終わってバンクーバーも眠りにつくころ、私は直行便で成田に着きました。
東京のほうが寒く感じたくらい、暖かだったバンクーバー。私が行った4日間、ウイスラーはずっと雨と雪でした。
それでも多くのボランティアのおじさんやおばさん、若者たちががんばっていました。会場では常に明るく声をかけてくれて、様々な案内もとても親切。そして丁寧なごみ拾いも気持ちのいいものでした。
そしてなによりも会場の雰囲気がフレンドリーでとても良かった。
コースからはずれても登り返して最後まで滑ろうとする選手には大歓声。間違いなく雪など降らないと思われる南国の選手にも大歓声。
その雰囲気をつくり出していたのが会場ボランティアのみなさんだったと思います。
男子SLの表彰を見おわって帰るときに、一番目についたボランティアのおばさんに「とても素晴らしいおもてなしでしたよ」と持参したpinをプレゼントすると
「Thank you , Thank you !」と涙ぐんで喜んでくれました。
ワールドカップでもこのような気持ちのいい会場がありました。私がよく覚えているのはバド・クラインキルヒム。
山の中の小さな温泉町でしたが、会場係員のひとたちがみな笑顔であいさつしてくれて、観客席にいなかった私でもそのhospitalityには感激させられました。
今回は観客だったこともあり、会場ボランティアのひとたちとのふれあいが、いつにも増していい思いでになりました。
それでは、写真雑感を。
先月25日、バンクーバー空港に着いたのはお昼前でした。さっそく変なもの発見。もう見慣れちゃってる方もいらっしゃると思いますが、空港のターンテーブル上の案内表示に親切にも日本語も出るのですが、
「免除の限界の内にあったら進む線の出口に喜ばしなさい」と書いてあります。これじゃ、よけいわからん!!(笑)
日本語の次には画面が切り替わって韓国語とアラビア語らしきものが出るのですが、おんなじように直訳で意味不明だったりして。
空港周辺のタクシーはいま話題のプリウスばっかり。街中でもヨーロッパより多くの日本車が走っていました。期間中だけなのかもしれませんが、カナダ国旗をなびかせて走っている車も多かったです。
ウイスラービレッジには五輪がシンボルとして設置され、記念写真スポットに。晴れた日に撮れたひとはラッキーでしたね。
その五輪シンボルのすぐ脇にはリュージュの滑走で亡くなったノダル・クマリタシビリ選手を偲ぶモニュメント。多くの花束がそなえてありました。
女子SLでは銀メダルを獲得したマリス・シールド。男子SLは恋人ライヒの応援に来ていました。
私はずっと彼女を撮っていたのでライヒの1本目はまったく見ていないのですが、帰って録画を見ると、途中で減速した場面があったのですね。そのときが多分これ。
そして、ゴールからライヒがはっきり見えるようになってからはこれ。
最後はゴール時点でラップタイムでこれ。飛び跳ねたのではみ出ちゃいました(笑)。
気持ち、伝わりますね。彼女は2本目のあと我々との記念写真にも快くおさまって笑顔をくれました。
1本目、無念のコースアウトに終わった賢太郎。
彼がゴールに降りてきて、ワンピの上にポンチョをはおっただけで取材エリアに行くまではほんの数分。まだ50番台の選手が滑っていました。
賢太郎は多くの報道陣の取材をうけました。まずテレビ数局で数10分、そして場所を数メートル変えて活字媒体記者で数10分。
集大成のレースは「最悪」の結果だったにもかかわらず、辛抱したと思います。
余談ですが、こういうときは聞くほうもつらいのです。私が選手の悔しがっている姿を撮り続けるように、聞くほうもその悔しさを多くのひとに伝えようとしているのです。
ゴールエリアのはしっこで、賢太郎のサービスマン、ガスパーが待っていました。
2人が軽く抱きあうと、それまで被っていなかったフードを賢太郎は深くかぶりました。
そしてその手をガスパーは父親のように引いて2人は滑っていきました。
さて、今週末にはクヴィットフェルでSGとDH。そして来週は最終戦のガルミッシュ・パルテンキルヘンが待っています。
その前にとても大きな悔いをひとつ。
「日本男子の枠は2つではなく3つあった」
http://www.sanspo.com/vancouver2010/news/100228/oaa1002281843006-n1.htm
この話にふれないわけにはいきません。
いまさら何を言ってもバンクーバーオリンピックは帰ってこない。
本心は「だったら騒げば騒ぐほど湯浅を傷つけることになるのではないのか」。
でも、逃げるわけにはいきません。
私の最大の悔いは
「現場に近いところにいる俺にできたことはなかっただろうか?」。
「シュラトミングが終わった時点でチーフコーチやヘッドコーチに『やっぱり2枠のままですか?もしかして3枠になったりしませんかね?』という確認を私自身が怠ったのではないか? 確認していれば『無理だろうけど問い合わせはしてみよう』となったかもしれない」。
(もちろん、そうならなかったかもしれない。部外者でささやかな力さえない私の言葉など忘れられて当然で、こういうことを考えること自体がおこがましいかもしれない)。
今は、可能性が限りなくゼロに近い「他国辞退枠」を可能性はゼロではないと強く思って、追求し続けなかった自分自身のことを悔やむ。
ただ、批判を承知でひとつ言わせてほしいことがある。
「増枠を断ること自体、間違っている。それに加え、JOCにしろ、SAJにしろ、増枠を断るのならまず最初に現場に連絡するべきではないのか?現場のコーチや選手がまったく知らないところで、選手に関わる最も重要な決定がなされているという事態は由々しき問題ではないのか?」。
今回のことは
「もう二度とこのようなことが起こらないようにする」。
という悲しい結論以外に結論はない。
一度たりとも起こしてはならないことだったにもかかわらず。
HPの「湯浅直樹ヒストリー」、1998-2002シーズンにスキージャーナル編集長のご好意により、2002年大鰐インターハイの記事を追加させていただきました。この場をかりて感謝申し上げます。